ヤマハ発動機の技と術

やまももの木は知っている ヤマハ発動機創立時代のうらばなし

11戦後

終戦とともに、日本楽器が行なった平和産業への転換ぶりは実に見事であった。
プロペラ用工作機械は佐久良工場へ運び出されていたために、ほとんど戦火にあわずに済んだが、皮肉にも楽器を生産するための木工機械と関連した設備は完全に焼失してしまっていた。
楽器の生産を再開するためには、まずもって戦火にあった木工機械の修理を始めなくてはならない。そこで今の遠鉄曳馬駅のすぐ近くにあった小さな分工場に戦災機械を運びこみ、修理を開始した。私もこの工場の係を命ぜられてしばらくはここへ通いつめたが、幸いプロペラ時代の腕ききの技能者が揃っていたので助かった。
修理が完了した機械は中沢の本社工場へ送りこんだ。廃墟のようにガランとした通称「新工場」の東側に機械を並べ、なんとか生産を始めることができた。ガラス窓は破れ、屋根はところどころ青空が見えるような環境のなかで、小判型の食卓(チャブダイ)やシロホンが最初の製品であった。

戦禍を逃れて移転した佐久良工場

一方、日本楽器の天竜工場では、通称千円バラックといわれた戦災復興用簡易住宅を始め、焦土から立ち上る浜松市民に大いに貢献したのである。
日本楽器がいち早く平和産業に復活したとはいうものの、世の中は戦後の混乱時代であって、食糧事情も依然として好転せず、ベースアップも激しいインフレに追いつかず、私たちの生活もほんとうに苦しい時代であった。
箪笥(タンス)の中の着物類も食糧にかえるという、いわゆる竹の子生活がつづき、生きることの苦しさと尊さといったものをいやというほど、味わったのであった。

戦後の通勤風景の一コマ

通勤も小さな電車にギュウギュウつめこまれ、窓なしの貨車の中で悪臭にとりかこまれた数十分間は苦痛の連続だった。また時たま乗せられた無蓋車の方は誠に快適であったが、ポールからショートのたびに落ちてくる火花には困って、傘をさして乗ったものだったがまったくマンガそのものだった。
私も木機課の機械係主任として6年ほど木材の切削加工技術と取り組んだが、一方労働組合の執行委員にも選ばれ、団交にもたびたび出席することになった。
労使関係も社会的な環境に呼応するかのようにエキサイトし、一触即発のときもあったが、大正末期の日本楽器の大ストライキの教訓が生かされ、その度にピンチをきり抜けたように思う。

12賠償指定機械解除

昭和22年(1947年)にはピアノの生産も再開され、昭和25年9月15日には日本楽器の経営は川上嘉市社長から川上源一社長に継がれ、一つの転機を迎えることになった。
私も昭和27年11月に技術部の能率課長を命ぜられ、川上源一社長の工場近代化方針に基づき、家内工業的生産方式からの脱皮をはかるための仕事に参加させて頂くことになった。

当時の佐久良工場

そのころ佐久良工場において、賠償指定を受け整備保管されていた工作機械が、平和産業のためなら使用してよいということになって賠償指定は解除された。これらの工作機械は、当時の日本楽器の仕事の内容からするとほとんど使いみちはなく、何か活用の道はないだろうかと川上社長も頭を痛められていた様子であった。
まだオートバイを始めるという話題にもならないときであったが、昭和28年(1953年)10月に本田技研の住吉工場を見学した。この工場は今の浜松製作所ができる前に使っていたもので、製茶工場を転用し、ベンリイのエンジンを生産していた。

案内してくれた方が、当時は珍しかったGF(ジョージ・フィッシャー)製の高速倣い旋盤を自慢して見せてくれたことと、エンジンは土間の上の簡単なアタッチメントに取り付けられ、ブルンブルンと踊りながら運転されていたことが、今でも印象的に頭に残っている。人員は住吉で約350名、日製70台、10月の目標は1,645台と聞く。業界のトップに踊りでたホンダさんの一工場の実態であった。

13活用のみちを求めて

昭和28年(1953年)11月7日、高井技術部長よリ、川上社長の内意が次のように伝えられた。
「エンジンの試作をやってみたい。でき得るならば5~6種位とり組んでみる必要があろう。その中から製品を選び一年後には本格的生産に入りたい。佐久良工場の機械が悪くならないうちに活用することを考えなくてはならない」と。
勿論、極秘扱いの内容であって、話の主旨を伺った関係者もなんとなく身のひきしまる思いであった。考えてみれば、このとき私たちがヤマハ発動機という企業のレールに乗った運命的な一瞬だったのである。
次いで11日には社長の意図を実現するために、技術部内で秘密会議がもたれた。参加者は高井、小野(現ヤマハ車体社長)、根本(現ヤマハ発動機常務)、執印(現日本楽器取締役)、伊藤(福)(現三信取締役)、竹内(十)(現東海精技へ出向)の諸氏と私の7名であり、いろいろと討議した結果、その時点における方針らしきものがまとまった。
細かいことは省くが、主なことは次の通りである。

・90cc 4サイクル
・スクーター型
・ホイールはベビーライラック型
・売価は100,000円位
・シリンダーはライナーを入れる
・生産には女子従業員の活用をはかる

しかし実際は、生産時の状態と見くらべるとずいぶん変ってしまっている。ただ女子の件は、今のパッソルラインの女性化と相通ずるものがあって興味深い。

14試行錯誤

当時のオートバイメーカーは全国で42社を数え、生産量はホンダの月産3,200台をトップとして、トーハツが1,500台とつづいたが、我々の耳にはいやなことが入ってきた。ポンポン景気と呼ばれ、うけに入っていた浜松地方の数多いメーカーが、続々と淘汰されていくといううわさである。
登り景気の業界に便乗した商品計画はやり易いものであるが、下降線をたどっている業界へ乗り出そうとするこの計画は、卒直にいって余りよい気持ちではなかった。
11月16日(月)に部長以上の会議にて、モーターサイクル関係の計画が改めて決定して、社長はオート三輪に興味をもたれているということを伝え聞いた。それからは関係者によって、三輪メーカーの工場を見学したり、いろいろ調査してみると、各社とも相当な規模で充実した生産体系が確立しており、これを知った我々は頭をかかえてしまった。
12月17日、高井部長と共に社長にこの辺の事情を報告したところ、社長からは、「今から三輪に取り組むのは大変だ。これに追いつくことはまず困難であろう。改めて二輪車かスクーターを計画してみるように」といった方針が示され、高井技術部長、小野研究課長は業界調査のため、ドイツを始めとしてヨーロッパヘ出張するよう命令が下された。

1954年(昭和29年)1月、ヨーロッパの二輪車業界および市場調査に出発する高井・小野両氏を浜松駅で見送る川上社長(右)

この命令に従って、両氏は明けて昭和29年(1954年)1月21日に出発、4月1日まで70日間にわたる長期間、ヨーロッパのオートバイメーカーの見学と工作機械などの調査に出張された。
出張された後の技術部の面倒をみることになった私は、しばらく悪戦苦闘の毎日をつづけることになった。それは技術部が総力を挙げて取り組んだミシンテーブル塗装の流れ作業の新レイアウトが完成したものの、なかなか軌道に乗せることができず、対策に奔走していたためである。
いろいろと収穫もあった反面、結果的には高い月謝を払ったこのプロジェクトは、社長の期待に応えることができず、私も責任を感じ反省と呵責(かしゃく)の念にかられる想い出である。そんなこともあって、その間はモーターサイクルのことはしばらくお預けの形となっていた。
しかし両氏の出張帰社後は急に活発な動きが始まり、計画は白熱化して進められた。ヨーロッパの事情を聞くことは当時としては珍しいことでもあったので、我々は興味をもって、むさぼるように吸収することにつとめた。
4月の半ば頃ではまだ何をやるかは決定せず、DKWの175ccかハーキュレスの150ccか、あるいはベスパのスクーターかといった調子で、モデルとする車の選定には迷いつづけていた。