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いつの日も遠くヤマハ発動機 開拓時代のうらばなし

ヤマハ発動機の技術ストーリーをご紹介します。

船外機とともに

12社長特命「N計画」

そこで次の課題として小池社長から、年間生産台数30万台体制を作ることが示された。まだ商品ラインナップは60馬力以下であり、販売網から見てもそんな数量は考えられない時に示された目標である。しかしこのように具体的な目標が示され、その条件を満たすために各部門が対策を考え出すと、不思議にやらなければならないことが見えてくる。

「よし頑張ろう!」と全社を挙げて目標に取り組んだ。技術部はラインナップの充実に全力をあげる。営業は販売網の整備に力を入れる。工場は大変である。大きな投資を覚悟して工場の構築をやらなければならない。簡単にいえば組立工場を一つ新設する必要があった。実際には現在の土地以外に場所が無かったので、平屋の2号館を2階建てに改築し、塗装と組立の新しい増強ラインを作るしか方法はない。

しかしこれをやるにしても2号館の稼働を止めないで構築しなければならない。生産を続けながら、同じ場所に新しい2階建ての工場を構築するのだから、これは至難の技である。飛島建設に相談し、無理を承知で引き受けてもらった。大変な工事であった。

この工事はN計画と呼ばれ、第一期工事と第二期工事に分けて行なわれた。1979年(昭和54年)に第一期、1981年(昭和56年)に第二期が実施され、その間、多少生産への支障はあったが、それでも1982年(昭和57年)には新2号館の完全稼働を始め、諸々の設備が完成した。

N計画前の2号館

N計画後の2号館

船外機の生産工場として世界初となったオーバーヘッドコンベアの導入

航走実験の基地として浜名湖のヤマハマリーナの横に整備棟もできた。このように目に見えるかたちで次々と建物が新しく大きくなると、従業員は自分たちの会社がどんどん発展して行く実感を持てるし、みんなの意欲も仕事に現れるようになってくる。

この結果、予想以上に販売が伸び、生産量も飛躍的に上げることができた。商品も85馬力から115馬力までの大型機種が整い、年間生産23万台、生産平均馬力も高くなり、わずか4年間で30万台(平均馬力25馬力換算)の目標を達成した。

N計画を打ち出した当時としては、会社は売上高及び利益の規模をはるかに越える過大投資を将来に対しての施策として思い切って行ったのである。しかしこれがその後の三信工業の利益の源泉となっていった。N計画が完了して船外機生産累計200万台を達成した年と、合弁事業が解消した年が同じ年であったというのも不思議な因縁である。

13残された「最後の市場」― 夢のアメリカへ

N計画の次に打ち出された課題は、ヤマハ船外機をアメリカ市場へ売り出すことであった。当時の小池社長の言葉を借りれば、「ヤマハ船外機が最後まで取っておいた市場」である。アメリカは船外機にとって世界の最も代表的な市場であり、アメリカで高い評価を得ることが世界の一級品として認められることで、これこそ我々の長年の夢でもあった。

話は前に遡るが、ブランズウィックとの合弁会社の正式な役員会では、大型機種の開発は認められなかった。しかし我々の最終目標であるアメリカ市場への商品に大型機種、特にV6エンジンは絶対に必要であり、早く開発しておかなければならないことが分かっていた。

しかし、マーキュリーの協力なしではなかなか難しくて自信がない。独力でやる方法としては、先ずプロトタイプを作り、それを基に勉強するしかないのだが、それには相当な時間を費やすことになる。

そのため何としても早く着手しなければならないと決断し、忙しい中から優秀な技術者二人(山本君、松本君)を1976年(昭和51年)8月にこの研究開発の仕事に振り向けた。合弁事業が開始してから3年目、40馬力の新商品がまだ生産される前のことである。この仕事はヤマハ発動機の役員会にも内緒で、私の判断で始めたプロジェクトであった。

先ずV6・150馬力・1,800ccのエンジンを1台独自で作ってみようと、マーキュリーとOMCのV6エンジンを参考に試作機作りが始まった。そして一年後の1977年(昭和52年)の半ばには、曲がりなりにも試作機ができ上がった。初めて作ったV6エンジンとしてはまあまあのできであった。

この試作機を動力計に取りつけて性能テストを始めると、いろいろと問題が出てくる。それらを対策しながらテストを繰り返すうちに、何とか性能面の目安が立つところまできた。こうして初めて作ったV6エンジンを目の前にすると、マーキュリーの技術供与なしでも、我々の手でできるんだという実感が朧気ながら持てるようになってきた。

そこで新たにV型エンジン開発計画を立案し、今度はヤマハ発動機内部の役員会で承認を得て、アメリカ市場を意識したV4及びV6船外機の開発を具体的にスタートさせた。もちろん三信合弁会社の役員会の承認なしで進められたのである。1978年(昭和53年)の初めのことであった。

14初めてのV型エンジン開発

その後間もなく、FTC(連邦取引委員会)から合弁についてクレームが提出され、合弁事業解消の可能性が出てきたため、このプロジェクトに拍車がかかった。V4、V6の商品の狙いは当然ながらOMCやマーキュリーのV型エンジンよりも優れた性能を持った商品の開発である。OMC、マーキュリーとの比較を充分に行って仕様を決定していった。

このようなV型の大型2サイクルエンジンの生産は、三信としてはもちろん初めてで、ヤマハ発動機でも経験がない。また本格生産となると設備も大変である。検討の結果、開発効率と生産面を考えて、V4、V6を一緒にシリーズとして開発することにした。仕様内容はV4、V6共にボアとストロークは共通とし、V6はV4に2気筒追加するだけのエンジンとする。この仕様ならピストン、コンロッドの周辺はまったく共通部品となる。スタイリングもシリーズデザインを採用することにより、ボトムカウリング、アッパーケース、ロワーケース、ブラケット、そしてコントロール関係も共通となる。

V4、V6それぞれの対応でなく、シリーズ開発を行うことはいろいろな面で好結果をもたらした。型投資、設備投資の考え方も明確になり、製造面での対応も早めに対策がとれ、延いては設計へのフィードバックもできる。開発面の問題点も共通解決が可能になった。

当時、120馬力の船外機を新開発する際の投資は、型費と設備・治具に一桁の億単位であったが、V型エンジンのシリーズ開発によるプロジェクトでは、先行したV4の投資がその倍近くであったのに対し、V6ではV4の4割程度と少ない投資で済み、V4、V6の投資を合計しても120馬力の3倍程度に収まったのであった。シリーズ開発をしなければもっと大きな投資額になっていたことだろう。

このような大型エンジンでは設計の考え方も従来の中・小型船外機とは違っている。OMCやマーキュリーのV型エンジンを分析すると、各部品が小さく作られており、強度指数などはほとんどない状態で作られている。我々の今までの経験で設計した場合、どうしてもOMC、マーキュリーのV型エンジンより大きく、また重くなってしまい、これでは船外機商品としては致命的である。仕方なくOMC、マーキュリー並みの強度指数の小さい設計を余儀なくされた。

15耐久性で凌駕する

設計から試作に入ると問題点が一層明らかになってくる。試作で特に大変だったのはクランクである。一体クランクを丸棒から削り出し、浸炭焼き入れをするが、せっかく高精度で削り出した素材も焼き入れによって曲がってしまう。それも一本一本曲がり量が違う。何度か修正を繰り返して何とか使えるものにする。

次はエンジンブロックである。性能面からシュニューレ掃気方式を採用したV型エンジンのシリンダーブロックは、図面を画くだけでも複雑で、立体的に理解するまでに時間がかかる程の代物である。鋳物の木型と試鋳品ができるまでに大変苦労した。(OMC、マーキュリーのV型エンジンは横断掃気を採用していたので、それほど複雑ではない)

V6エンジンブロックと其の鋳造シェル型

やっと試作機ができた。早速テストに入ると、あちこちが壊れたり焼き付いたりする。プロトタイプを作って、なんとかV型エンジンの開発ができると思ったのは考え方が甘かったのではないか。それからはトライ・アンド・エラーの仕事が続く。これなら生産に移行できるというレベルまで仕上げるために大変な時間を費やした。

例えばベアリングひとつとってみても、従来規格のベアリングではテスト中に簡単に壊れてしまう。そこでベアリングメーカーに相談すると、「この条件ではこのサイズのベアリングでもつわけがありません。ひとサイズ大きいものにして下さい」という。

ひとサイズ大きくすると、それにつれてエンジン全体がひと回り大きくなってしまい、OMC、マーキュリーのエンジンより大きく重くなる。「サイズはそのままで何とかできないか」メーカーに無理を言って材質を変えたり、ニードルのクラウニングやクリアランスを変えたり、熱処理方法を変えたり等々。さまざまな改良を細かく積み重ねていくに従って、徐々に耐久性が増してゆく。

OMC、マーキュリーのV型エンジンをテストすると、やはり耐久性がないことが判明した。これなら彼らに負けない商品ができるという自信を深め、いろいろな部品にベアリングと同様の改良を徹底して積み重ねていった。

16軽量コンパクトが船外機の要

V4型115馬力が商品としてようやく生産できるようになったのは1981年(昭和56年)6月であった。商品計画が始まってから3年半、最初にV型エンジンのプロトタイプの製作をスタートしてから実に5年を費やしたことになる。しかしこの5年間はヤマハの大型エンジン技術確立のための大切な時間であった。それは従来の中・小型船外機とは違った技術の領域を経験しなければならなかったからである。

先端技術を結集した大馬力モデルとして紹介する当時の広告(1981年)

ヤマハ船外機V型6気筒・2.6リッター・225馬力を例に取ると、このエンジン単体の重量は94kg、馬力当たり重量は0.42kgである。従来の中・小型船外機のエンジンでは馬力当たり重量は約1kg、自動車の2~3リッター・DOHCエンジンの1.2kgに比べても非常に軽く、コンパクトである。

また、船用エンジンの性格上、回転数も最高5,600rpmと低くしてあるが、出力はリッター当たり87馬力も出しているので、トルクはリッター当たり1.2kg・mと非常に高い。さらに海上では陸上と違って全開で使われることが多いため、耐久面での対策と、また海水による腐蝕の対策も必要である。

このように見てくると、このV6エンジンは量産エンジンでは世の中で最も軽く、コンパクトで、しかも使われ方がシビアなエンジンと言うことができる。我が国の2サイクルエンジンの権威者であった故富塚博士が来社された時に、V6船外機をお見せして説明したところ、「こんなに素晴らしい2サイクルエンジンが世の中にあるとは知らなかった」と言って、たいへん興味を持たれたことを覚えている。

船外機はコンパクトで軽いことが商品の一番重要な要素である。普通では考えられなかった200馬力以上の船外機が商品になり得たのも、この点の解決にあったからだ。極端な言い方をすれば耐久性、信頼性はそれほどなくても良い。軽さ、コンパクトさが身上として生まれてきたものだと思う。

量産エンジンでは世界最軽量クラスとして登場したV6・220馬力船外機

17他社に真似ができない技術

前述のようにさまざまトライ・アンド・エラーの繰り返しで、ヤマハV型船外機を作り出す仕事を通じて、ひとつの考え方に辿り着いた。今まで船外機全体は剛体であると思っていたが、実は非剛体であった。エンジンが回転している時はいろいろな形に変形している。足の部分も荷重を受けることにより、捩じれて変形する。このような見方ができた時から、いろいろな問題点が段々と判り始めてきた。

例えば、ロワーの変速べベルギアの場合、グリーソン社で加工方法を勉強し、自動車と同じようにグリーソンの規格に沿って設計して加工しても、数時間エンジンを回しただけで歯が欠けてしまう。その原因は、ロワーケースが走行中にエンジントルクの影響で変形し、ギアの歯当たりが大きく狂ってしまうためであった。ロワーケースが変形した時にも、正常な歯当たりになる様に歯切り加工を行わなければならない。つまり加工の際は歯当りがズレた部品を作ることになる。

コンロッドの大小端部の形状も、エンジン回転中のケースクランクの変形時に、できるだけ大きな面で当たる様な特殊加工をしなければならない。ベアリング類のクラウニングにおいても考え方は全く同じである。このようにトライ・アンド・エラーで、細かいレベルまで構成部品の形状と寸法を決めていく。

難しい加工の必要性も精度を上げる方向も、従来と違った形で解決しなければならないことが判ってきた。また、余裕の少ないことが最適セッティングの幅を狭め、加工のバラツキ幅もシビアに抑えることが要求された。このようなノウハウの積み重ねを行うことによって、同じコンセプトでも他社より信頼性の高い商品を作れることが判ってきた。

現在、ヤマハの大型船外機は、世界市場で他社より高い評価を受けているのもこのためである。まだ完全な商品になったとは思っていないが、こういうノウハウ作りの方向が少しずつ見えてきたと思う。

大型船外機の商品化は、従来の技術常識を越えた領域(ひと回り小さいサイズで同じ強度、信頼性を持たせる)への挑戦であった。これは我々の経験の一例であるが、どんな商品でも条件を一桁上げることができる技術を持てば、必ず他社より優位性を保つことができるものである。

国内の中小企業の中には、その製品では世界シェア60~70%以上を占める企業が結構たくさんあると聞いている。こういう企業は大企業のやらないものをやり、都会でなく地方に所在し、製品もいわゆるハイテクではなく部品単位のモノで、その代わりその製品に関する技術の柱だけはしっかり持った企業だそうである。一般に言われるハイテク分野への進出も必要であろうが、ハイテクといってもすぐに真似のできるもの、金をかければどこのメーカーでもできるものでは、本当のハイテクではない。自社で生産している商品分野で、その中に自社でなければできない高度な技術、熟練技量をしっかり持つことができれば、これがハイテクである。そういう意味で自分のところでなければできない、他社と差別化できる技術を作ることが技術者の課題ではないだろうか。

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