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いつの日も遠くヤマハ発動機 開拓時代のうらばなし

ヤマハ発動機の技術ストーリーをご紹介します。

モーターサイクルとわたし

5未踏の領域:ゼロからの設計

いよいよ構造設計に入ったわけだが、創作は初めての経験であったため、まず始めに何をどのようにしていくかという手順を真剣に考えた。そして次のような手順でレイアウトを構築していった。

1. 人間の居住空間(ライディングポジション)
人と車が接するシート、ハンドル、フットレストを結んで得られる三角形の形状と寸法を「前かがみのスポーティーなライディングポジション」になるように設計する。(これは自動車の運転席回りの寸法を決める方法を参考にした。もちろんオートバイでは初めてのことだった)

ライディングポジション

2. シ―トの高さ
走行安定性を良くし、車の重心をできるだけ下げることを配慮した高さを決定する。また両足が充分地面に着くまで下げる。

3. 前輪の位置
キャスターとトレールのバランスをどうするかが検討されたが、走行安定性を車の傾斜性などよりも優先させる条件で決定する。

4. 後輪の位置
「コンパクトな車」という思想から、前後の重心バランスが大きく崩れない程度のギリギリの所までホイールベ―スを縮める。

5. ホイール
タイヤ幅は広く、ホイールの径は小さくという考え方で、製作可能な範囲で決定する。(16インチを採用したが、当時としては初めての小径タイヤ採用だった)

6. 車体構造
板金プレスによるモノコック構造が軽量で合理的だと考えていたが、そのためには大型プレスが必要になる。またこの様な新しい構造を採用する場合、事前に強度の検証ができるものにしたいがこれが非常に難しい。かといって従来のパイプを組んだクレードルタイプ(当時のオートバイはほとんどがそうであった)はやりたくない。
結局、一本の太いパイプを曲げたバックボーンフレームを採用し、後部はリアフェンダー兼用のモノコックという新しい構造に挑戦した。これなら強度実験もある程度でき、各強度部材の断面係数も計算可能になる。また、力の取り方も単純明快で合理的だと判断した。

車体構造

7. フロントフォーク
操縦性と安定性を重視し、当時流行しつつあったリーディングホ―クは採用せず、普通のテレスコピック式としたが、クッションストロークを普通よりも20~30%増しにして悪路の安定性に配慮した。

8. リアクッション
操縦安定性の点からYA-1、YC-1のプランジャー式をやめ、スウィング式を採用した。

9. シート
スポーティーで、走行時の安定性を重視し、速度や路面の状況等でライディングポジションが大きく変化しないようにするため、スウィング式から当時業界では初めて固定式のシートとした。走行中の衝撃吸収は前述のフロントクッションストロークの増加及びリアクッションをスウィング式にしたことにより、これを補っている。

10. ガソリンタンク
以上のようにレイアウトが固まってくるとタンクの収まる寸法がおのずと決まってくる。本計画ではコンパクト設計の観点からタンクの長さも普通の車より短くなるが、容量は当時の普通の250ccオートバイより若干多い15リッター程度は確保したかった。そうなるとタンクの高さを高くとらなければならないが、ハンドルとの関係がある。必然的にタンク後方を高くし、従来のタンクとは逆向きの様な形にならざるを得なかった。そしてでき上がったのが「文福茶袋(ぶんぶくちゃがま)」と呼ばれたYD-1のタンクであった。これこそが機能とデザインの一致から自己主張されたものの代表である。タンクはオートバイデザインの大きな要素であるだけに、印象も強烈であった。

11. エンジン
エンジンは最初にサンプル車にしたアドラーMB250と同じ2サイクル2気筒を採用した。2気筒エンジンの採用も日本国内ではこれが最初であった。

以上のように設計の手順から始まり、構造、細部仕様の決定、デザインに至るまで一貫した思想の下でYD-1の製作が始まった。毎日夜11時過ぎまで働き、時には寝泊まりすることもあった厳しい仕事だったが、若さと、仕事も面白かったせいであろうか、苦労したと感じたことはない。少人数のしかも若い技術者達は、大事を任せられたということで皆な張り切っていた。

1957年2月に東京で開催されたYD-1発表会に向かう一行(左端は川上社長)

6絶賛されたYD-1

試行錯誤の繰返しではあったが、自由に伸び伸びと仕事をすることができた。この様な機会を与えられたことは、今振返ってみると技術者として幸運であったと思う。このYD-1の試作第一号車ができたのが1957年(昭和32年)2月であった。計画が始まってから試作車ができあがるまで約1年、少人数で全くオリジナルな車を短い期間に開発したことになる。当時、多くのオートバイ記者から、「ヤマハの持てる技術を全て注ぎ込んだオリジナルの傑作車」と絶賛された。うれしかった。青春を燃やして自分たちの考えたことを全てやり尽くしたという満足感でいっぱいだった。
YD-1はすばらしい性能だったが、生産に入ってしばらく経った頃、エンジンの2気筒クランクの継手部分にガタが出るというクレームが発生し、当時としては大掛かりな市場改修を行った。そのため市場では高い評価を得られなかったことが誠に残念であった。

YD-1のメディア向け試乗会

7初のグッドデザイン受賞

YD-1でやった仕事にある程度自信を持った車体設計チームは、次にYA-1 125ccのモデルチェンジ車、YA-2の開発に取り組んだ。従来から、車体はプレスのモノコックフレームが一番合理的で生産性も高いと信じていたし、いつかはこれを採用したいと念願していた。YA-2はこれを実行するには一番手頃なプロジェクトであると考え、モノコックフレームに挑戦した。
フロントフォークは当時流行のリーディングフォークを採用、リアはYD-1と同様のスウィング式、シートも固定タイプ、タイヤも16インチYD-1の考え方を流用し、エンジンは従来のYA-1からのリファインである。

この車は車体の変更が一番のキーであった。モノコックを採用するならモノコックだからできる良さを十分に出そうと思い、車体の側面は凸凹した物を表面に出さない。いわゆるフラットサーフェイスの考え方である。サイドカバーも一段沈めて表面から出ない様に苦心した。自動車の外観のイメージである。

このようにまとめたスタイリングは、従来にないすっきりした美しさがあった。このスタイリングはインダストリアルデザインの傑作として、初めてのグッドデザイン賞を受賞した。当時東京の後楽園を会場に、第一回グッドデザイン審査会が開かれ、各分野から商品が展示された。私はYA-2を前にして開発の考え方と特徴を説明し、審査員から高い評価を受けたことを覚えている。
欧米の模倣品で溢れていた時代に、私たちは自分達の新しい商品を作りたいという願望に燃えてYD-1とYA-2を作った。今でもこの仕事のきわやかさが心に残っている。

モーターサイクル初の「グッドデザイン賞」受賞となったYA-2

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