「吉田さんは、いいよなぁ」
同業者からそんなふうに言われたことがある。「だって、デザインを大切に思う人たちに囲まれているんだから」と。
かたちあるものを前にすれば、経営も、設計も、営業やお客様だって目を輝かせて思い思いの感想を口にする。確かに私はずっとそういう文化の中で仕事をさせてもらってきた。
船外機というプロダクトに長く寄り添ってきたことで、私の中には「デザインは潤滑油」という考え方が染みついている。
ボートの補機である船外機は、単体では価値を発揮しない。そして何よりも信頼性が優先される。信頼をキーワードにものづくりの現場と市場(お客様)の間を還流し、それを心地よくつなげる機能をデザインが担っていくのだと考えてきた。だからこそチームプレーという仕事の進め方をいつも大切にしてきた。
船外機を担当することになった1980年。まずは一度試乗させていただけないかと遠慮気味に打診してみたところ、設計さんは「乗ってみたいなんて言ったデザイナーは初めてだよ」と嬉しそうにその機会を提供してくれた。
わかり合おうとすること、信頼を築くこと、そして一緒に汗を流して成果を生み出していくこと。そうした日々の繰り返しの中で、リライアビリティを追求する禁欲的デザインに向き合う喜びが膨らんでいった。
三信工業が船外機の開発・製造を担っていた時代、デザイン室は実験棟の裏手にあった。
当時の安川力重役(のちに社長)も頻繁に足を運んでくださって、クレイを削る私たちの背中越しに激励、助言、檄の類を飛ばされた。
社内では「三信魂」という言葉が頻繁に交わされ、設計の皆さんは「磐田(二輪車のエンジン設計)に負けるか!」という気概を持っていたし、それに触発された私たちも(デザインオリエンテッドなMCプロダクトを横目に見つつ)「くそー、東京のGKなにするものぞ」という気持ちを秘めていた。そうした反骨精神は、当時世界4位のブランドだったヤマハをNo.1に押し上げた原動力にもなったと思う。
いま、大学の講義に立ち、デザイナーを志す学生たちに「こんなおもろいシゴト、なかなかないで」と話している。
デザインとは、それに携わっている人々が感じている以上に、じつは経営に近い上流の仕事。「デザインを大切に思っている人」がたくさんいるこの会社なら、なおのことだと思う。