DAYSIN THE STUDIO
そこにあるありあわせのものを
創意工夫して使いこなす。
これはブリコラージュと呼ばれる
人類に備わったひとつの本能。
想像を現実化するために、
デザイナーたちはスケッチを描き、
立体モデルを起こす。
開発チームにその造形の意図を
理解してもらわなければならない。
そのために、あらゆる手法を
編み出していった。
本社にあるプレゼンテーションルームでは、これまで数え切れないほどのプロダクトが審議を受けてきた。それは当たり前のように繰り返されてきた行為だが、疑問を抱いている者もなくはなかった。
たとえば船外機。「水の上で使う道具のグラフィックは、水の上で検討されるべき」。そして、浜名湖でのプレゼンテーションを実施した。
ボートに船外機を装着し、その周りを別のボートでぐるっと回って審議する。ゆらりゆらりと揺られるプロダクトには、水や空の光と色が映り込んだ。アメリカの現地法人に対するプレゼンテーションでは、芝生を水面に見立てて1/3クレイを1/3ボートに装着した。
デザイナーは「使用者の目の高さ、目の角度で検証されるべき」とこの方法に胸を張ったが、現地営業担当者の「いや、購入者はディーラーの店頭で船外機を見上げるんだ」という意見にも一理があった。
カラーコピーやプロジェクターがなかった時代には、レンダリングも約1週間の時間を要する作業だった。
1/4スケッチを抱えてデザイナーが向かった先は街中のコピーサービス。ここで拡大した上下二分割のスケッチを丹念にテープでつなぎ、50mmセクションの入った半透過の用紙に裏から留める。その後、1/1テープドローイングをして、丁寧にマスキングを施してからエアブラシで描いていく。タイヤパターンやビスまですべてが手描きだった。
これらの膨大な作業を効率よく行うため、かつてのデザイン棟には4台分の昇降機能つきレンダ描写室が存在した。
また、線図を手描きしていた時代は、クレイが完成すると、その精度の低いガタガタのプロットデータを頼りにデザイナーが線図用定規とボールペンを使って伸縮のないマイラー紙に清書した。正面・上面・側面を整合させるため、何十枚もの紙定規を使ってのチェックが欠かせない気が遠くなるような作業だった。
そうしてようやく完成した線図に設計者が構造を加え、職人が木型のマスターをつくり、石膏反転し、倣い加工で金型を彫る。後に線図を電算データに置き換えていく時代が来ても、その思考ベースとなるのはやはり手描き線図の経験だった。
ブランドを視覚化するロゴやカラーは、統一された運用が行われてこそ初めてその力を発揮する。もちろんそれらを牽引するのはデザインの役割だ。
しかしそうした概念がまだまだ希薄で、また運用のための体制やツールが脆弱だった時代には、それぞれの市場の中で、またそれぞれの事業の中で異なるヤマハブランドのイメージが育まれていた。
たとえば船外機のヤマハロゴが北米と欧州で異なることが指摘されたのは、1980年代半ばとそう古い話ではない。これに問題意識を持ち、グローバル統一を目指して働きかけを行ったのはデザイナーだった。また、1998年に行われたヤマハ船外機のグローバル統一カラー制定(後にグレイッシュパープルグレーメタリック)の過程でも、デザイナーが大きな役割を果たしている。
1964年発行の販売店向け情報誌では、ロゴとカラーの正しい運用についてその目的を説いている。模造紙を使ったロゴの描き方や地域の塗装店への発注方法を丁寧に解説するなど、市場の隅々に至るまで一つのヤマハを浸透させていこうとする取り組みの第一歩が見て取れる。