RD56ベースで迎えた 2スト・スポーツの黄金時代
(前編より続く)
多気筒多段ミッションのGPマシン時代に幕が下ろされた後、ヤマハは市販レーサーでレース活動を続けていた。その市販レーサーは2スト・スーパースポーツのYDSシリーズからDX250やRX350、そしてRDシリーズへと進化していった市販車と、共通の車体にベースを同じくするエンジンという構成だったのだ。
「市販レーサーのTD(250ccでTD3まである)TR(350ccでTR3まであった)それにTZ(水冷になって250cc・350ccがあった)もフレームはRD56の延長です。RD56というのは1960年頃にできて、RD05が出るまでに完成されていた。基本となるのはいつもRD56だった」この市販レーサーで育ったライダーのなんと多いことか。
K・ロバーツ、B・シーン、F・ウンチーニ、片山敬済、F・スペンサー……挙げていくと際限がないほど'70年代のチャンピオンはヤマハの市販レーサー育ちだ。カワサキ系チームを出てプライベートで’73年に全日本チャンピオンとなって世界GPを走った僕も、このヤマハTR3、TZ350のユーザーだった。当時はたとえばカワサキのKR250やKR350、それにハーレー(買収されていたイタリアのアエルマッキ)の250や350などのワークスマシンが、このヤマハ市販レーサーを何とか攻略しようと必死だったのだ。トップスピードではさすがにこれらワークスマシンにかなわなかったが、ヤマハ市販レーサーは抜群のハンドリングでコーナーが速く、チャンピオンの座をなかなか明け渡さなかったのである。この無敵の市販レーサーと共通のフレームのヤマハ2スト・スポーツの評判が悪かろうわけがない。
RD05を全面的に見直し、徹底した軽量・小型化を図ったRD05A。1968年、フィル・リードの3回目となるGP250制覇に貢献した
フェザーベッド型フレームや足回りなど多くの技術が、ファクトリーマシンRD05Aから市販レーサーTD-2やTD-3(写真)にも引き継がれた
当時の全日本選手権は市販車ベースのマシンでなければ参戦できなかったため、
市販レーサーTD-3と市販車DX250(写真)は多くの共通点を持っていた
ここで、当時、開発に携わった実験担当のベテラン藤森孝文氏(故人)の言葉を引用したい。(第2プロジェクト開発室・実験担当・主任技師:インタビュー当時)
「YDSに始まってDXとかRXは市販レーサーレプリカというわけで、エンジン特性とのバランスとかタイヤやサスのセッティングと一般公道での実用性のチェックくらいで、特に開発テストを必要としませんでした。レーサーとして完成されていたんですからパワーが少ない市販車では車体マージンが大きかったんでしょうね」。このヤマハのルーツでもある2スト・スーパースポーツは、世界中のレースで優勝するヤマハ市販レーサーのイメージもあって、コーナリングの優れたバイクというイメージが定着したのはいうまでもない。同時にコーナリングの良いバイクでカーブを楽しむライダーも増えてきていた。有名な六甲トレーニングなどが話題になってきたのもこの頃だ。しかし’70年代に入って、市販車のほうは中心が4ストのビッグバイク開発へと確実に流れを変えていったのだった……。
1973年、プライベーターとしてTZ350を駆って全日本選手権を走る根本健氏。この年、ワークス勢を抑え全日本チャンピオンを獲得した