その日は、モーターサイクル業界にも、ヤマハ発動機にとっても歴史的な日となった。モトクロス250cc世界選手権フィンランドGP、1973年の8月5日。革新のサスペンションを装着するヤマハファクトリーマシンYZM250を駆るハカン・アンダーソンが両ヒートを制し、自身とヤマハに初の世界チャンピオンをもたらしたのだ。
後に世界のモーターサイクル用サスペンションの基準となる1本型サスペンション、”モノクロスサスペンション”が、その潜在力と可能性を世界に立証した瞬間だった。
物語はその前年まで遡る。
DT-1の発売で世界中にオフロードムーブメントを巻き起こしたヤマハは、さらなる技術開発には世界の頂点への挑戦が必要だと判断し、1972年にモトクロス世界選手権への参戦を開始した。しかし世界の舞台には、マイコ、ハスクバーナ、CZなどの欧州メーカーや、既に先行して実績を上げていたスズキ勢などの大きな壁が立ちはだかっていた。
後発のヤマハにとって、「ライバルと同じことをやっていたのでは勝てないどころか、革新的な技術投入を急がねば実力あるライダーもヤマハを選んでくれない・・・」という状況だった。
既にロードレースで世界タイトルを獲得し、エンジン開発ではノウハウを蓄積していたヤマハ開発陣は、「モトクロスでは車体、とくにクッション性能向上がポイントとなる筈だ」と、サスペンション関連の技術習得に注力していく。サスペンション専用メーカーに頼るだけではなく、自らもその開発に果敢にチャレンジし、同年「サーマルフロー・リアサスペンション」という新しい装備をファクトリーマシンに装着。ダンパーオイルの温度上昇により減衰力が不安定になるという問題の解決のため、従来比で3倍ものオイル容量をもち、冷却用のフィンを備えるオイルタンク付リアショックだった。性能はアップした。しかし、250cc第10戦スウェーデン、500cc第11戦ルクセンブルクで優勝するなどの成績をあげたものの、チャンピオン獲得への道のりはまだ遠かった。
そんな1972年シーズンのある日、契約ライダーのベルソーベンがGPチームを統括していた鈴木年則に呟いた。「面白いマシンがあるので、見に行こう」と。鈴木はベルギーのリエージュ工科大学教授ルシェン ・ティルケンズ博士宅へ向かい、その工房で1本型のショックアブソーバーを目にした。「もしかするとモトクロッサーの性能アップに繋がる可能性があるかもしれない。検証する価値はある」と、欧州のヤマハの拠点Yamaha Motor N.V.と磐田の本社にこの情報を伝えた。
本社の動きは早かった。250ccのファクトリーマシンをベースに、そのサスペンションが装着できるように改造の手配をし、その性能を確認するため9月には研究部部長の畑則之、野村和彦らがベルギー、アス村にある小さなコースへ極秘に集まった。
契約ライダーたちが乗ると「遅くはないがパワー感がなく走らない」という。しかしラップタイムは標準より遅くはない。野村はそのとき、マフラーがへこんでいることに気付いた。本来のパワーが出ていないのに速く走れている。それはスムーズに走れることを意味した。畑はジャンプからの着地でマシンの動きの違いを見ぬき、この方式をベースに開発を進めようと瞬時に判断を下した。特許の対価は当時のヤマハ発動機にとって非常に大きな金額であったが、この技術は磨けば光ると、本社経営陣を説得していったのだった。
野村は語る「モトクロスで後発だったヤマハはサスペンション開発に強い関心を持っており、かなり研究していました。クッションが良くなればモトクロスは大きく変ると、我々はモノクロスサスペンションを開発するまでに、そこまでは気がついていたのです。だからこそ、初めて1本型サスペンションを見たときもその価値をいち早く認識し、そのことが、この全く新しい構造に挑戦する決断を助けたんです」と。
その1本型サスペンション装着車はすぐに日本に送られ、10月に磐田に到着すると、本社近くの天竜川河川敷テストコースで契約ライダー鈴木秀明たちによってテストされた。「パワーがないが、楽に走れる。でもタイムは悪いのでは・・・」が第一印象だった。欧州でのテスト同様、2本サスに慣れているライダーたちには、速く走れている感覚はなかった。しかしタイムは違った。1周約1kmのコースで3秒も速い。ライダーもエンジニアも仰天し可能性を確信した。一刻も早くこの技術の熟成と実用化を図るべく、開発陣の全力投球が始まった。
「まず減衰力発生機構の作り込みに注力しました。肝となる技術は自分たちでノウハウを蓄積すべきと考え、キャブレターのジェット交換の手順などを応用して減衰力発生の機構を独自に作り上げていった」と野村はふり返る。また、ショックアブソーバーは車体への懸架が鍵となる。タンクレールに沿って陣取るショックアブソーバーに対して、エアクリーナーの配置が問題となった。「数えきれないほどイラストを描きました。最後はもう絵を作成する時間もなく、発砲スチロールや粘土でカタチを手作りし、スペースを検討しました。またそうした試行錯誤の中からリアアームを三角形にするという発想も生まれた」と。
翌年の全日本モトクロス選手権開幕戦でのデビューが決まると、開発陣は深夜までの仕事が続いた。エアクリーナーは結局、250ccはエンジンの脇、125ccは両サイドに取り付けられた。
その他、窒素ガス封入の仕組みなど、数々の難所を乗り越え、ついにリアのサスペンションストロークが従来2本サスの倍近くにもなる手作りのファクトリーマシンが完成した。開幕戦直前で仕上がった250cc3台、125cc3台は、1973年3月、全日本選手権開幕戦の茨城県矢田部に向かうトラックに積み込まれて磐田を出発した。
迎えた3月18日、全日本開幕戦。そのファクトリーマシンが練習走行を開始すると会場は騒然となった。「リアクッションがないぞ!」という声があちこちで聞こえる。タンク下のフレームに取り付けられた新型サスペンションは外からは見えなかったからだ。しかもそのバイクだけがジャンプを高く飛んでいく。結果、125ccでは鈴木都良夫が、250ccでは実兄の鈴木秀明が優勝。両クラスともモノクロスサスペンション搭載車が表彰台を独占する圧倒的な勝利だった。国内メディアはこぞって「空飛ぶサスペンション」と書きたて、そのニュースは世界中を駆け巡っていった。
全日本で鮮烈なデビューを果たした”モノクロスサスペンション“は、同年、世界の頂点である250cc・500ccのモトクロス世界選手権に投入されたが、いち早く結果に繋がったのが250ccだった。1973年の開幕前の2月、アスで初めて新型YZM250を見たアンダーソン。「優位点はホイールトラベルを沢山稼げること、バンプ走破性が良いことでした。タイトルが見えていたこの時期に、全く新しいものがやってきた」と強い期待を胸にしていた。しかし日本で開発してきたその特性は、アンダーソンの感触にすぐにマッチした訳ではなかった。日本とヨーロッパでは伸減衰と圧減衰の使い方が違ったのだ。
そんなベクトルの違いを調整しながらセットアップし、第3戦ベルギーでモノクロスサスペンション装着マシンがついにGPデビュー。第1ヒート3位、第2ヒートで優勝を飾ると、続くユーゴでも両ヒート優勝と快進撃が続く。フランスの第1ヒートでは、スタートに失敗するも最後尾からの驚異的な追い上げで2位を獲得し、第2ヒートは独走で優勝を決めた。するとその猛烈な走りを目のあたりにした競技役員の判断により、アンダーソンは彼自身最初で最後となるドーピングテストを受けることになってしまう。アンダーソンとモノクロスサスペンション搭載のYZM250はそれほど驚異的な早さだったのである。
そして迎えた第8戦フィンランド。第1、第2ヒートともにアンダーソンがトップを飾り、遂に世界チャンピオン獲得という歴史的な瞬間が訪れたのだった。
それはヤマハの開発陣がアスで初めてその1本型サスペンションに巡り合ってから僅か1年後のことだった。
しかも勢いは250ccだけではなかった。全日本の開幕戦で衝撃の優勝を果たした鈴木都良夫は、欧州でのFIM杯125ccにも挑戦、モノクロスサスペンション搭載のYZM125を駆りAグループでチャンピオンを獲得したのだ。さらに9月23日ユーゴスラビアで行われたA、Bグループ上位30選手によるチャンピオン決定戦も第1ヒート3位、第2ヒート1位で総合2位となる。ヤマハと日本人選手の活躍は、欧州のモトクロスファンにその存在を強烈に印象づけていったのだった。
モノクロスサスペンションとヤマハの快進撃は北米にも広がっていった。DT-1発売以降、急速に盛り上がったオフロード熱の中、米国でのヤマハ販売会社、ヤマハUSコーポレーションは、1973年、オランダ国内のモトクロスチャンピオン、ピエール・カールスマーカーをチームに迎えいれレース参戦を開始。ピエールは徐々に米国式のスタイルに慣れると、同年500ccAMAモトクロスのタイトルを獲得。翌1974年は、同年から始まったスーパークロスシリーズ戦でモノクロスサスペンション搭載マシンを駆り、初のチャンピオンに輝いたのだった。
当時をピエールはこう思い起こしている。「モノクロスサスペンションが日本から到着したときは、とてもエキサイティングでした。私たちはヤマハの技術者とともに9か月近くをかけてテスト、セットアップして戦闘力アップをしていきました。リアのサスペンションは飛躍的に性能が上ったのですが、実はフロントまわりの剛性が足りなくなり、それに色々対処しました。私の提案に対して、ヤマハ技術者たちは熱心に耳を傾け、一生懸命努力してくれました。だから私はいつもヤマハファミリーの一員という認識を強く持って走っていました。」
ピエールの活躍を突破口にヤマハは米国での躍進を遂げていく。なかでもモトクロスで脚光を浴びたのがボブ・ハンナだった。1976年はAMAナショナル125ccでチャンピオンに。そして1977年から1979年まで3年連続でスーパークロスのタイトルを獲得。またブロック・グローバーはAMA史上最年少でナショナル125ccタイトルを獲得するなど、「アメリカにヤマハ旋風」と多くの記事が書かれることになった。”モノクロスサスペンション”は、米国でのモトクロス熱の高まりの中にあって、ヤマハの存在感を強烈に印象づけるアイコンとして光り輝き、その後「モトクロスのヤマハ」黄金時代を築いていったのである。
ファクトリーマシンで実力を示したモノクロスサスペンションは翌1974年、早くも市販モトクロッサーYZ250に搭載され、世界中のモトクロスファンの期待に応えていく。そしてその後もオフ・オン問わず多くのモデルに展開され、その技術はモーターサイクルの車体設計そのものに大きな変革をもたらしていった。
今では1本のショックアブソーバーをもつリアサスペンションは、全く珍しくないどころか、二輪のデファクトスタンダードともいえる存在となった。しかしその起点となった革新の技術“モノクロスサスペンション”が生み出されるまでには、新しい技術開発に賭けたヤマハ技術者と、ともに苦労した契約ライダー達の熱いドラマがあったのである。そして、この技術者とライダー達のマニアとも呼べる情熱によって、その後もヤマハはオフロードのニュージャンル開拓と新技術開発を進めていくことになる。