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コラムvol.24

ヤマハのレース活動50年の歴史をコラムでご覧いただけます。Vol.24「GP初優勝で壁を破った平忠彦、苦闘の1年」

vol.24 1986/RR/World Grand Prix GP初優勝で壁を破った平忠彦、苦闘の1年

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苦しんだ末につかんだ世界GP初優勝。あまり派手なポーズを見せない平忠彦だが、この時ばかりは大きく両手を差し上げ、満面に会心の笑顔を覗かせた

 イタリアのアドリア海岸に面した街、リッチョーネを西に折れると、目に染みるような緑の牧歌的な田園風景が広がる。その平坦で見晴らしのよい村々に囲まれたミサノサーキットが、1986年の最終戦サンマリノGPの舞台となった。
 平忠彦は、GP250クラス予選で1分21秒67を記録。ヤマハのエース、カルロス・ラバードに次ぐ2番手のポジションにつけていた。しかも3位はマーチン・ウィマー。これでヤマハYZR250は、スターティンググリッドの上位1-2-3を占めたことになる。
 3月の開幕戦もそうだった。ハラマサーキットでのスペインGP。全日本選手権GP500を3年連続で制した平にとって、250ccは希望と異なるクラスだが、夢にまで見た世界GPフル参戦を始める大事な一戦。その予選最終セッションで、平はラバードを3番手に押しのけ、ポールポジションのウィマーに0.02秒差と迫る2位を獲得したのだ。
 しかし、当時の決勝レースはグリッド上でエンジンをいったん停止し、シグナルサインとともに押し掛けでスタートするスタイル。Vツインエンジンの振動を抑えるため同時爆発方式を採用した1986年型YZR250は、始動性に難があった。せっかく得たセカンドグリッドを無駄にしないよう、慎重にいかなければ……。そういう意識が、余分な緊張を強いたのかもしれない。
 開幕戦の決勝、無事スタートを切ったラバードとウィマーに対して、平は押し掛けに失敗。立ち往生したところへ後続車が激しく追突し、左足に重いダメージを負ってしまう。
「もう目の前が真っ暗。押し掛けなんて涙が出るほど痛かったし、走り出したあとも足に力が入らずコーナーで踏ん張れない。でも、わざわざヨーロッパまで来たのは、走るため、レースをするため。ここであきらめるわけにいかなかった」
 第2戦イタリアGPでは、動かない足を懸命にかばいながら予選10位。決勝もほかの選手が走り去ったあと30秒近く遅れてスタートし、22位で完走した。それが走り続ける勇気を取り戻すきっかけになったと、平は雑誌のインタビューで語っている。
 初めてポイントを挙げたのは、ニュルブルクリンクでの第3戦西ドイツGP。予選6位からスタートし、またも出遅れるが、着実にひとりずつかわして9位。さらにオランダでは予選3位、決勝6位という好成績を挙げるが、第5戦ユーゴスラビア、第9戦イギリスでの転倒によって右足まで痛めてしまった。
 そして8月24日、ついに最終戦サンマリノGPを迎えた。
 両足のケガはまだ癒えておらず、YZR250の悪癖も相変わらずだったが、泣いても笑ってもこれが最後。あとはもう日本に帰るだけ。そんな開き直りに近い心境が、平の集中力をいっそう研ぎ澄ませたのかもしれない。開幕戦と同じ予選2番手で決勝に望む姿は、どこか雰囲気が違っていた。
 スタートはまたしても最悪。あっという間に後方の集団に飲み込まれ、チームスタッフも一瞬息を詰めたが、今度は大丈夫。30位近くまで順位を下げたものの、平は無事に第1コーナーへ進入した。
 何とかポイント圏内で完走してくれれば……。見守るスタッフのささやかな願いと裏腹に、平はこれまで見せたことのない気迫、強引とさえ思える走りでグングンとポジションを上げていく。そして終盤、ついに4台のNSR250が連なるトップグループを捉えた平は一瞬の躊躇もなく切り込み、猛烈果敢なアタックでパス。

 最後は、2位のマンクに2秒の差をつけて、誰よりも早くゴールを駆け抜けた。
「確かに苦しいシーズンだったけれど、得たものは計り知れない。特に、ラインを1~2本分外してもベストタイムが出せる走りを身に付けられたことが大きいですね」
 帰国後、そう言って自信をのぞかせた平は、久しぶりのYZR500で日本GP(全日本選手権・最終戦)、TBCビッグロードレースに参戦。ガードナー、ローソンと1対1の激しいデッドヒートを展開し、鮮やかな2連勝を飾って見せた。
 日本で20年ぶりの世界GP、初の500ccレース開催を控えた前年、秋のことである。

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